エピグラフとかエビピラフ 12/画家・キャンヴァス・観者の位置関係

「アクション・ペインティング」という呼称の影に隠れてこれまで見過ごされてきたのは、絵画の存在論的様態を人的な位相へと昇格させようとするローゼンバーグの思考ではないだろうか。ローゼンバーグのテクストが示唆するのは、主体と客体との関係をインタラクティヴ(相互的)なネットワークとして語ること、あるいは絵画をコミュニケーションのレヴェルで語ることである。(沢山遼)

絵画は一方的に見られるもの、つくられるものではなく、主体に呼びかけ、主体を巻き込む、関与的なもの、接触的なものへと変貌する。それは観者を外的な観察者の位置に留めることを許さないだろう。つまり、ポロックやニューマンがつくりだそうとしたのは、なにかについての絵画ではなく、なにかそのものとしての絵画なのだ。それは絵画ではなく、絵画以上のものであり、それがそれ自体であるような、リアルな実在である。(沢山遼)


画家・キャンヴァス・観者の位置関係はフラットだ。画家とキャンヴァスはコミュニケーションし、キャンヴァスと観者はコミュニケーションし、観者と画家はコミュニケーションする。
二つの引用は『現代アート10講』(武蔵野美術大学出版局)の第3講「抽象表現主義と絵画、あるいは絵画以上のもの─ポロック、ニューマン、ロスコ」から。

エピグラフとかエビピラフ 11/画家本人

つまり、「根源的なもの」を描かなければならないという、抽象表現主義の画家たちに共有された命題が要請するのは、いわば表象不可能なものの表象可能性の探求である。その意味で抽象表現主義の画家たちは、具象的・再現的なイメージを否定すること以上に、純粋な抽象という観念に反対した。あるいは、そこでは具象/抽象という様式の対立そのものが偽の問題として斥けられなければならなかった。(沢山遼)

絵画とは自己の発見である。すべての優れた画家は彼自身を描く(ジャクソン・ポロック)


意識的であろうとなかろうと、言語化しようとしまいと、色や形やタッチやマチエールには、画家本人が表象される。主題も問題意識もその画家の限界さえも。
引用はどちらも『現代アート10講』(武蔵野美術大学出版局)第3講「抽象表現主義と絵画、あるいは絵画以上のもの─ポロック、ニューマン、ロスコ」より。

エピグラフとかエビピラフ 10/「これで決まり」の感覚

だれもが活け花をそんなに真剣にやるとは思わないけれど、活け花に限らず「これで決まり」となるまでなにかにこだわる場面は、だれにでもあるはずだ。洋服に合うベルトを探す場面でもいいし、プリンとクリームをひとつの皿にバランスよく盛りつけるといった場面でもいい。どんな些細なことでも、ちょっとしたニュアンスのちがいで全体のバランスが乱れ、あるべき関係はひとつしかないという感じがするものだ。(エルンスト・H・ゴンブリッチ)

例えば「大事なのはコンセプトであって、ものでない」というような名分で、「これで決まり」の感覚がなおざりにされる。しかし、いくら情報化された世の中でも、人間はものを作り、ものを使って生きる。ものを丁寧に作る意識が減退したら、社会は貧しくなって行くだろう。
引用は『美術の物語』(河出書房新社)序章から。

エピグラフとかエビピラフ 9/古い画集

好きになるのは、どんな理由からでもいいけれど、嫌いになるのは、どんな理由からでもいいというわけにはいかない。(エルンスト・H・ゴンブリッチ)

古い画集を開き、熱い珈琲を啜る。何が大事なことか、今一度考える。
引用は、ゴンブリッチ博士の大著『美術の物語』(河出書房新社)序章より。

エピグラフとかエビピラフ 8/人間の創造力(と言って悪ければ加工力)


ペノーネにとって彫刻のメディウムである木材は、彫刻家のイマジネーションが投影され、変化させられる無垢な素材ではなく、それ自体が固有の歴史を持ったものとして扱われている。そしてその固有の歴史が彫り出されるのだ。(松井勝正)

無から有を生み出す神の奇跡的な力を意味していた「創造」という言葉をもともとの意味で使うならば、実は人間にはそもそも物質を創造する能力などない。芸術家が何かを創造するという近代の考え方は、物質の世界ではなく表象の世界でだけ成立するフィクションであるとも言える。(松井勝正)


二十世紀後半の反省を踏まえた現在、人間はもはや自然を支配し得るなどと考えていないし、自らが作ったシステムやテクノロジーにさえ翻弄され、自信を喪失する始末。今や、人間の創造力(と言って悪ければ加工力)を再び信じられるようなアートが必要だ。
二つの引用は『現代アート10講』(武蔵野美術大学出版局)の第2講「メディウムの探求─ミニマリズムとポストミニマリズム」より。

エピグラフとかエビピラフ 7/デュシャンの向こう

これはリンゴである。あなたは誰かにこれはバナナだと言われるかもしれない。彼らは「バナナ、バナナ、バナナ」と、繰り返し繰り返し叫ぶかもしれない。「バ・ナ・ナ」と強調するかもしれない。あなたまで、これはバナナなのでは?と信じかけるかもしれない。でも違う。これはリンゴである。(リンゴの写真を使ったCNNのコマーシャル)

現代文化をめぐる長文エッセイを通じてウォレスは、ポストモダンの皮肉が物事を爆破するうえで強力な道具となり得る一方で、本質的には「批判的で破壊的な」論理であると論じた。障害物を排除するには有益だが、「暴露した偽善に取って代わる何かを構築するには」、きわだって「使い物にならない」と。シニシズムの普及は物書きを誠意や「オリジナリティ、高潔、誠実といった昔風の価値観」から遠ざけると彼は記した。「嘲りを頻発する者にとって嘲りからの盾となり」「未だに時代遅れの見せかけに騙される大衆の上を行く、嘲りの後援者を」祝福する。「発言が真意でない」という態度は、自分たちが偏狭なのではなく、ただのジョークだと装うオルタナ右翼のトロールに採用されることになる。(ミチコ・カクタニ)


現代アートの出発点は「便器をアートだと言ったらアートになる」である。アートはいい加減、デュシャンの向こう、ポストモダンの向こうに行くべきだ。
引用はともに『真実の終わり』(集英社)から。CNNのコマーシャルは、第一章のエピグラフに使われている。

エピグラフとかエビピラフ 6/シシュポスのように

「無限のユー(you)ループ」とパリサーが呼ぶように、ソーシャルメディアのサイトは私たちに自らの世界観を肯定する情報を与えがちだ。そのため人々は日に日に狭まるコンテンツの地下室と、それに合わせて縮小する塀に囲まれた思考の庭に暮らす。(ミチコ・カクタニ)

ただでさえ、絵を描いていると絵の世界の庭に、俳句を書いていると俳句の世界の庭に迷い込む。くれぐれも気を散らして生きて行かねば。作っては壊せ、シシュポスのように。
引用は『真実の終わり』(集英社)より。

エピグラフとかエビピラフ 5/リヒターの予言に適うもの

レディメイドの発明は、「リアリティ」の発明であるように思う。つまりそれは、世界を描写してある映像をつくることではなく、リアリティこそが唯一重要なことがらなのだという、決定的な発見なのである。それ以来、絵画とはもはや現実を描写するものではなく、現実(自分自身をつくりだす現実)そのものとなった。そしていつか時がくれば、その現実も否定されて、もっとすばらしい世界の映像を(あいもかわらず)つくりだすことが再び問題となるだろう。(ゲルハルト・リヒター)

抽象も具象も描いて行きたい。願わくば、リヒターの予言に適うようなものを。
引用は『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』(淡交社)より、リヒター1990年5月30日のノート。

エピグラフとかエビピラフ 4/普通のもの

たとえ、私の作品たちが、まるで自律的な規則にしたがい、私の意志に逆らって、自分たちが望むものを私とともにつくりだし、なんとなく成立してしまうとしても。作品が最終的にどのようなものになるかを決定するのは私なのだから(作品の制作は無数のイエスとノーの決定を経て、そして最後のイエスでおわる)。
こうしてみると、すべては結局ごく当然のことというか、ほかの社会的な分野とくらべてみても、生き生きとした自然なことのようにもみえる。(ゲルハルト・リヒター)


アートが「何でもあり」だとは思わない。生煮えの材料を放り出したようなやつにはうんざりだ。一方で、アートは何も「特別なもの」でなく、人間の営為や、人間を含む自然の在りようのアナロジーであって欲しい。ごく「普通のもの」であって欲しい。
リヒターの言葉は『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』(淡交社)より、1990年2月12日のノート。

エピグラフとかエビピラフ 3/小さい枠

絵画について語ることに意味はない。言語でなにかを伝達することによって、人はそのなにかを変化させてしまう。語られうる性質のほうをでっちあげて、語られえないそれをないがしろにする。でも語られえないものこそ、つねにもっとも重要なのだ。
ポルケ曰く、「描くという行為にはなにかあるにちがいないぞ、だって、たいていの狂人はなにもいわれなくても描きはじめるんだから」。(ゲルハルト・リヒター)

したがって、絵画はコンセプチュアルアートやコンテンポラリーアートなどという小さい枠に収まらない。
引用は『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』(淡交社)より、リヒター1964〜65年のノート。

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