エピグラフとかエビピラフ 10/「これで決まり」の感覚

だれもが活け花をそんなに真剣にやるとは思わないけれど、活け花に限らず「これで決まり」となるまでなにかにこだわる場面は、だれにでもあるはずだ。洋服に合うベルトを探す場面でもいいし、プリンとクリームをひとつの皿にバランスよく盛りつけるといった場面でもいい。どんな些細なことでも、ちょっとしたニュアンスのちがいで全体のバランスが乱れ、あるべき関係はひとつしかないという感じがするものだ。(エルンスト・H・ゴンブリッチ)

例えば「大事なのはコンセプトであって、ものでない」というような名分で、「これで決まり」の感覚がなおざりにされる。しかし、いくら情報化された世の中でも、人間はものを作り、ものを使って生きる。ものを丁寧に作る意識が減退したら、社会は貧しくなって行くだろう。
引用は『美術の物語』(河出書房新社)序章から。

エピグラフとかエビピラフ 9/古い画集

好きになるのは、どんな理由からでもいいけれど、嫌いになるのは、どんな理由からでもいいというわけにはいかない。(エルンスト・H・ゴンブリッチ)

古い画集を開き、熱い珈琲を啜る。何が大事なことか、今一度考える。
引用は、ゴンブリッチ博士の大著『美術の物語』(河出書房新社)序章より。

エピグラフとかエビピラフ 8/人間の創造力(と言って悪ければ加工力)


ペノーネにとって彫刻のメディウムである木材は、彫刻家のイマジネーションが投影され、変化させられる無垢な素材ではなく、それ自体が固有の歴史を持ったものとして扱われている。そしてその固有の歴史が彫り出されるのだ。(松井勝正)

無から有を生み出す神の奇跡的な力を意味していた「創造」という言葉をもともとの意味で使うならば、実は人間にはそもそも物質を創造する能力などない。芸術家が何かを創造するという近代の考え方は、物質の世界ではなく表象の世界でだけ成立するフィクションであるとも言える。(松井勝正)


二十世紀後半の反省を踏まえた現在、人間はもはや自然を支配し得るなどと考えていないし、自らが作ったシステムやテクノロジーにさえ翻弄され、自信を喪失する始末。今や、人間の創造力(と言って悪ければ加工力)を再び信じられるようなアートが必要だ。
二つの引用は『現代アート10講』(武蔵野美術大学出版局)の第2講「メディウムの探求─ミニマリズムとポストミニマリズム」より。

エピグラフとかエビピラフ 7/デュシャンの向こう

これはリンゴである。あなたは誰かにこれはバナナだと言われるかもしれない。彼らは「バナナ、バナナ、バナナ」と、繰り返し繰り返し叫ぶかもしれない。「バ・ナ・ナ」と強調するかもしれない。あなたまで、これはバナナなのでは?と信じかけるかもしれない。でも違う。これはリンゴである。(リンゴの写真を使ったCNNのコマーシャル)

現代文化をめぐる長文エッセイを通じてウォレスは、ポストモダンの皮肉が物事を爆破するうえで強力な道具となり得る一方で、本質的には「批判的で破壊的な」論理であると論じた。障害物を排除するには有益だが、「暴露した偽善に取って代わる何かを構築するには」、きわだって「使い物にならない」と。シニシズムの普及は物書きを誠意や「オリジナリティ、高潔、誠実といった昔風の価値観」から遠ざけると彼は記した。「嘲りを頻発する者にとって嘲りからの盾となり」「未だに時代遅れの見せかけに騙される大衆の上を行く、嘲りの後援者を」祝福する。「発言が真意でない」という態度は、自分たちが偏狭なのではなく、ただのジョークだと装うオルタナ右翼のトロールに採用されることになる。(ミチコ・カクタニ)


現代アートの出発点は「便器をアートだと言ったらアートになる」である。アートはいい加減、デュシャンの向こう、ポストモダンの向こうに行くべきだ。
引用はともに『真実の終わり』(集英社)から。CNNのコマーシャルは、第一章のエピグラフに使われている。

エピグラフとかエビピラフ 6/シシュポスのように

「無限のユー(you)ループ」とパリサーが呼ぶように、ソーシャルメディアのサイトは私たちに自らの世界観を肯定する情報を与えがちだ。そのため人々は日に日に狭まるコンテンツの地下室と、それに合わせて縮小する塀に囲まれた思考の庭に暮らす。(ミチコ・カクタニ)

ただでさえ、絵を描いていると絵の世界の庭に、俳句を書いていると俳句の世界の庭に迷い込む。くれぐれも気を散らして生きて行かねば。作っては壊せ、シシュポスのように。
引用は『真実の終わり』(集英社)より。

エピグラフとかエビピラフ 5/リヒターの予言に適うもの

レディメイドの発明は、「リアリティ」の発明であるように思う。つまりそれは、世界を描写してある映像をつくることではなく、リアリティこそが唯一重要なことがらなのだという、決定的な発見なのである。それ以来、絵画とはもはや現実を描写するものではなく、現実(自分自身をつくりだす現実)そのものとなった。そしていつか時がくれば、その現実も否定されて、もっとすばらしい世界の映像を(あいもかわらず)つくりだすことが再び問題となるだろう。(ゲルハルト・リヒター)

抽象も具象も描いて行きたい。願わくば、リヒターの予言に適うようなものを。
引用は『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』(淡交社)より、リヒター1990年5月30日のノート。

エピグラフとかエビピラフ 4/普通のもの

たとえ、私の作品たちが、まるで自律的な規則にしたがい、私の意志に逆らって、自分たちが望むものを私とともにつくりだし、なんとなく成立してしまうとしても。作品が最終的にどのようなものになるかを決定するのは私なのだから(作品の制作は無数のイエスとノーの決定を経て、そして最後のイエスでおわる)。
こうしてみると、すべては結局ごく当然のことというか、ほかの社会的な分野とくらべてみても、生き生きとした自然なことのようにもみえる。(ゲルハルト・リヒター)


アートが「何でもあり」だとは思わない。生煮えの材料を放り出したようなやつにはうんざりだ。一方で、アートは何も「特別なもの」でなく、人間の営為や、人間を含む自然の在りようのアナロジーであって欲しい。ごく「普通のもの」であって欲しい。
リヒターの言葉は『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』(淡交社)より、1990年2月12日のノート。

エピグラフとかエビピラフ 3/小さい枠

絵画について語ることに意味はない。言語でなにかを伝達することによって、人はそのなにかを変化させてしまう。語られうる性質のほうをでっちあげて、語られえないそれをないがしろにする。でも語られえないものこそ、つねにもっとも重要なのだ。
ポルケ曰く、「描くという行為にはなにかあるにちがいないぞ、だって、たいていの狂人はなにもいわれなくても描きはじめるんだから」。(ゲルハルト・リヒター)

したがって、絵画はコンセプチュアルアートやコンテンポラリーアートなどという小さい枠に収まらない。
引用は『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』(淡交社)より、リヒター1964〜65年のノート。

三日月

俳人の重富國宏さん曰く、照明が三日月に見えるのは計算か?
絵は相棒・岡本匡史の『斜めな水平線』
二人展は明日19日最終日、山本は終日在廊しています。

双樹会展ー関西美術院の作家ー
岡本匡史/山本真也
【会期】2021年9月7日(火)〜9月19日(日)/13日(月)休廊
【時間】11時~18時/最終日は〜17時
【ギャラリートーク】12日(日)17時〜18時/参加費無料
【会場】アートギャラリー博宝堂
【会場住所】〒606-8344 京都府京都市左京区岡崎円勝寺町91-99
【会場TEL】075-771-9401
【会場URL】http://hakuhou-doh.com
【最寄り駅】地下鉄東西線東山駅より徒歩7分

エピグラフとかエビピラフ 2/広い連帯

芸術はコミュニティをつくる。人を人と結びつけ、同じような考えをもって努力している人々と結びつける。(ゲルハルト・リヒター)

仲間たちと、301というグループをやっている。俳句・短歌を軸に、多ジャンルの創作者が集い、新たな視座や活動領域を作って行こうというもの。近い志を違うジャンルで叶えようとしている人を見ると、広い連帯を感じて勇気付けられる。同じ分野であんまり似てる人に会ったら、やな気分になるけど。
引用は『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』(淡交社)より、リヒター1962年のノート。

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