エピグラフとかエビピラフ 5/リヒターの予言に適うもの

レディメイドの発明は、「リアリティ」の発明であるように思う。つまりそれは、世界を描写してある映像をつくることではなく、リアリティこそが唯一重要なことがらなのだという、決定的な発見なのである。それ以来、絵画とはもはや現実を描写するものではなく、現実(自分自身をつくりだす現実)そのものとなった。そしていつか時がくれば、その現実も否定されて、もっとすばらしい世界の映像を(あいもかわらず)つくりだすことが再び問題となるだろう。(ゲルハルト・リヒター)

抽象も具象も描いて行きたい。願わくば、リヒターの予言に適うようなものを。
引用は『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』(淡交社)より、リヒター1990年5月30日のノート。

エピグラフとかエビピラフ 4/普通のもの

たとえ、私の作品たちが、まるで自律的な規則にしたがい、私の意志に逆らって、自分たちが望むものを私とともにつくりだし、なんとなく成立してしまうとしても。作品が最終的にどのようなものになるかを決定するのは私なのだから(作品の制作は無数のイエスとノーの決定を経て、そして最後のイエスでおわる)。
こうしてみると、すべては結局ごく当然のことというか、ほかの社会的な分野とくらべてみても、生き生きとした自然なことのようにもみえる。(ゲルハルト・リヒター)


アートが「何でもあり」だとは思わない。生煮えの材料を放り出したようなやつにはうんざりだ。一方で、アートは何も「特別なもの」でなく、人間の営為や、人間を含む自然の在りようのアナロジーであって欲しい。ごく「普通のもの」であって欲しい。
リヒターの言葉は『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』(淡交社)より、1990年2月12日のノート。

エピグラフとかエビピラフ 3/小さい枠

絵画について語ることに意味はない。言語でなにかを伝達することによって、人はそのなにかを変化させてしまう。語られうる性質のほうをでっちあげて、語られえないそれをないがしろにする。でも語られえないものこそ、つねにもっとも重要なのだ。
ポルケ曰く、「描くという行為にはなにかあるにちがいないぞ、だって、たいていの狂人はなにもいわれなくても描きはじめるんだから」。(ゲルハルト・リヒター)

したがって、絵画はコンセプチュアルアートやコンテンポラリーアートなどという小さい枠に収まらない。
引用は『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』(淡交社)より、リヒター1964〜65年のノート。

エピグラフとかエビピラフ 2/広い連帯

芸術はコミュニティをつくる。人を人と結びつけ、同じような考えをもって努力している人々と結びつける。(ゲルハルト・リヒター)

仲間たちと、301というグループをやっている。俳句・短歌を軸に、多ジャンルの創作者が集い、新たな視座や活動領域を作って行こうというもの。近い志を違うジャンルで叶えようとしている人を見ると、広い連帯を感じて勇気付けられる。同じ分野であんまり似てる人に会ったら、やな気分になるけど。
引用は『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』(淡交社)より、リヒター1962年のノート。

エピグラフとかエビピラフ 1/まず画家なのだ

でも、皮肉に、批評的に、分析的に絵画の慣習をとり扱うために描かれる絵画と、慣習をうけいれつつも、できるかぎりその慣習から自由であるような物理的、視覚的リアリティをつくり出そうとする絵画では大きく異なります。そういうことでしょうか?(ロバート・ストア)
まったくそのとおりです!私の作品は理論的慣習や絵画自体の分析とは関係しません。でも彼らの意図はちがうのです。今おっしゃったことはとても正しい。だから、私は自分の作品に押しつけられたそういう意図とか動機を、すべて拒絶してきたのです。(ゲルハルト・リヒター)


我々は絵が好きなのだ。アーティストである前に、まず画家なのだ。
引用は『増補版 ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』(淡交社)から、2001年のロバート・ストアによるリヒターへのインタヴュー。

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