エピグラフとかエビピラフ 15/可能性と柔軟性

…溢れそうに盛りこまれた神話のなかの物語は奇抜で豊潤なのに、それぞれの物語についての描写は意外なくらい淡白なのである。それが神話の特性であり、であるから、芸術家は神話のある部分に触発され、新たな作品を創造するともいえるだろう。(宮田毬栄)

阿刀田高著『私のギリシャ神話』(集英社文庫)に寄せられた「解説」の引用。この後、ラシーヌ・ジロドゥ・サルトル・カミュの名、そして阿刀田氏の『新トロイア物語』が挙げられる。本編中にも、モリエール・ゲーテ・ニーチェ、ボッティチェリ・ダヴィンチ・アングル・モローの絵画、ミロのビーナスやベルニーニの彫刻、映画『マイ・フェア・レディ』等々、ギリシャ神話の様々な変奏が登場する。
さて、俳句や抽象画は自ずから余白を伴う表現だが、その余白は言い足りずの空白ではない。新たな読みを開く可能性であり、読者一人一人に応ずる柔軟性である。

エピグラフとかエビピラフ 14/会場に置いて来る

「作句信条」であれ「生活信条」であれ、信条というものは人の心に枠をはめる。いわば心の自由を奪います。しかし心の自由な働きこそ文学の根本なので、信条というものは持たないようにしています。(長谷川櫂)

作品発表の度にステートメントの類を書く。それは、後生大事に守って行くというものではない。展覧会が終わったら、作品共々会場に置いて来る。そして次に進む。
引用は、『俳句』創刊65周年記念付録の「現代俳人名鑑 Ⅲ」より。

エピグラフとかエビピラフ 13/人生の物語

この本を通して私が語ろうとしているのは、美術における技術の進歩の物語ではなく、美術についての考え方や社会的な条件の変化の物語なのだ。(エルンスト・H・ゴンブリッチ)

個人レヴェルでも同じことが言える。自分の絵を作るとは、折々の考え方とぴったり来る画面を探すことだし、それは折々の社会的条件にも影響される。絵は、作者の変化の、つまり人生の物語となる。
引用は『美術の物語』(河出書房新社)第1章「不思議な始まり 先史、未開の人びと、そしてアメリカ大陸の旧文明」から。

エピグラフとかエビピラフ 12/画家・キャンヴァス・観者の位置関係

「アクション・ペインティング」という呼称の影に隠れてこれまで見過ごされてきたのは、絵画の存在論的様態を人的な位相へと昇格させようとするローゼンバーグの思考ではないだろうか。ローゼンバーグのテクストが示唆するのは、主体と客体との関係をインタラクティヴ(相互的)なネットワークとして語ること、あるいは絵画をコミュニケーションのレヴェルで語ることである。(沢山遼)

絵画は一方的に見られるもの、つくられるものではなく、主体に呼びかけ、主体を巻き込む、関与的なもの、接触的なものへと変貌する。それは観者を外的な観察者の位置に留めることを許さないだろう。つまり、ポロックやニューマンがつくりだそうとしたのは、なにかについての絵画ではなく、なにかそのものとしての絵画なのだ。それは絵画ではなく、絵画以上のものであり、それがそれ自体であるような、リアルな実在である。(沢山遼)


画家・キャンヴァス・観者の位置関係はフラットだ。画家とキャンヴァスはコミュニケーションし、キャンヴァスと観者はコミュニケーションし、観者と画家はコミュニケーションする。
二つの引用は『現代アート10講』(武蔵野美術大学出版局)の第3講「抽象表現主義と絵画、あるいは絵画以上のもの─ポロック、ニューマン、ロスコ」から。

エピグラフとかエビピラフ 11/画家本人

つまり、「根源的なもの」を描かなければならないという、抽象表現主義の画家たちに共有された命題が要請するのは、いわば表象不可能なものの表象可能性の探求である。その意味で抽象表現主義の画家たちは、具象的・再現的なイメージを否定すること以上に、純粋な抽象という観念に反対した。あるいは、そこでは具象/抽象という様式の対立そのものが偽の問題として斥けられなければならなかった。(沢山遼)

絵画とは自己の発見である。すべての優れた画家は彼自身を描く(ジャクソン・ポロック)


意識的であろうとなかろうと、言語化しようとしまいと、色や形やタッチやマチエールには、画家本人が表象される。主題も問題意識もその画家の限界さえも。
引用はどちらも『現代アート10講』(武蔵野美術大学出版局)第3講「抽象表現主義と絵画、あるいは絵画以上のもの─ポロック、ニューマン、ロスコ」より。

エピグラフとかエビピラフ 10/「これで決まり」の感覚

だれもが活け花をそんなに真剣にやるとは思わないけれど、活け花に限らず「これで決まり」となるまでなにかにこだわる場面は、だれにでもあるはずだ。洋服に合うベルトを探す場面でもいいし、プリンとクリームをひとつの皿にバランスよく盛りつけるといった場面でもいい。どんな些細なことでも、ちょっとしたニュアンスのちがいで全体のバランスが乱れ、あるべき関係はひとつしかないという感じがするものだ。(エルンスト・H・ゴンブリッチ)

例えば「大事なのはコンセプトであって、ものでない」というような名分で、「これで決まり」の感覚がなおざりにされる。しかし、いくら情報化された世の中でも、人間はものを作り、ものを使って生きる。ものを丁寧に作る意識が減退したら、社会は貧しくなって行くだろう。
引用は『美術の物語』(河出書房新社)序章から。

エピグラフとかエビピラフ 9/古い画集

好きになるのは、どんな理由からでもいいけれど、嫌いになるのは、どんな理由からでもいいというわけにはいかない。(エルンスト・H・ゴンブリッチ)

古い画集を開き、熱い珈琲を啜る。何が大事なことか、今一度考える。
引用は、ゴンブリッチ博士の大著『美術の物語』(河出書房新社)序章より。

エピグラフとかエビピラフ 8/人間の創造力(と言って悪ければ加工力)


ペノーネにとって彫刻のメディウムである木材は、彫刻家のイマジネーションが投影され、変化させられる無垢な素材ではなく、それ自体が固有の歴史を持ったものとして扱われている。そしてその固有の歴史が彫り出されるのだ。(松井勝正)

無から有を生み出す神の奇跡的な力を意味していた「創造」という言葉をもともとの意味で使うならば、実は人間にはそもそも物質を創造する能力などない。芸術家が何かを創造するという近代の考え方は、物質の世界ではなく表象の世界でだけ成立するフィクションであるとも言える。(松井勝正)


二十世紀後半の反省を踏まえた現在、人間はもはや自然を支配し得るなどと考えていないし、自らが作ったシステムやテクノロジーにさえ翻弄され、自信を喪失する始末。今や、人間の創造力(と言って悪ければ加工力)を再び信じられるようなアートが必要だ。
二つの引用は『現代アート10講』(武蔵野美術大学出版局)の第2講「メディウムの探求─ミニマリズムとポストミニマリズム」より。

エピグラフとかエビピラフ 7/デュシャンの向こう

これはリンゴである。あなたは誰かにこれはバナナだと言われるかもしれない。彼らは「バナナ、バナナ、バナナ」と、繰り返し繰り返し叫ぶかもしれない。「バ・ナ・ナ」と強調するかもしれない。あなたまで、これはバナナなのでは?と信じかけるかもしれない。でも違う。これはリンゴである。(リンゴの写真を使ったCNNのコマーシャル)

現代文化をめぐる長文エッセイを通じてウォレスは、ポストモダンの皮肉が物事を爆破するうえで強力な道具となり得る一方で、本質的には「批判的で破壊的な」論理であると論じた。障害物を排除するには有益だが、「暴露した偽善に取って代わる何かを構築するには」、きわだって「使い物にならない」と。シニシズムの普及は物書きを誠意や「オリジナリティ、高潔、誠実といった昔風の価値観」から遠ざけると彼は記した。「嘲りを頻発する者にとって嘲りからの盾となり」「未だに時代遅れの見せかけに騙される大衆の上を行く、嘲りの後援者を」祝福する。「発言が真意でない」という態度は、自分たちが偏狭なのではなく、ただのジョークだと装うオルタナ右翼のトロールに採用されることになる。(ミチコ・カクタニ)


現代アートの出発点は「便器をアートだと言ったらアートになる」である。アートはいい加減、デュシャンの向こう、ポストモダンの向こうに行くべきだ。
引用はともに『真実の終わり』(集英社)から。CNNのコマーシャルは、第一章のエピグラフに使われている。

エピグラフとかエビピラフ 6/シシュポスのように

「無限のユー(you)ループ」とパリサーが呼ぶように、ソーシャルメディアのサイトは私たちに自らの世界観を肯定する情報を与えがちだ。そのため人々は日に日に狭まるコンテンツの地下室と、それに合わせて縮小する塀に囲まれた思考の庭に暮らす。(ミチコ・カクタニ)

ただでさえ、絵を描いていると絵の世界の庭に、俳句を書いていると俳句の世界の庭に迷い込む。くれぐれも気を散らして生きて行かねば。作っては壊せ、シシュポスのように。
引用は『真実の終わり』(集英社)より。

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