有馬芸妓の新作舞『カラカラハイカラストリート』のMVが公開

有馬芸妓の新作舞『カラカラハイカラストリート』のMVが公開。監督・高木マレイ、作詞・山本真也。俳句の連作形式で、春夏秋冬と大正昭和初期の文化芸術現象「阪神間モダニズム」を表現した。

I wrote the lyrics for a new stage of Arima Geiko – Geisha in Arima Hot Springs. “Karakara Haikara Street” is made up of 4 parts – 4 seasons. Each is described by 3 haiku.
Please come to the oldest hot springs and enjoy the brand new stage!

The recording of International PechaKucha Day 2022

On February 19, I participated in International PechaKucha Day and talked about my hometown and my creative activity. Here is the recording of the event. My presentation starts at around 2:56:30.

2022年2月19日(土)International PechaKucha Day(インターナショナル・ペチャクチャ・デイ)に参加、創作活動や拠点としている国・町について語りました。僕のパートは、2:56:30頃から。

International PechaKucha Day “Kyoto, Haiku, Abstraction, Communication”

International Pechakucha Day –
February 19th, 3pm
Speaker: Shinya Yamamoto
Title: Kyoto, Haiku, Abstraction, Communication
Shinya here talks about his artistic activities and philosophies as a haiku poet and painter and how he gains inspiration from his hometown.

今週土曜2月19日、International PechaKucha Day(インターナショナル・ペチャクチャ・デイ)に参加し、自分の創作活動や拠点としている国・町について語ります。僕以外にも様々な国の人がプレゼンし続け、24時間で世界一周するというもの。YouTubeでライブ配信、のちアーカイブ化されます。
https://www.pechakucha.com/events/kyoto-vol-41

僕のトークは19日15時から、このチャンネルで。アフタヌーンティーのお供にご覧下さい。
https://m.youtube.com/watch?v=rMMBcOf4P9M
(僕のパートは、2:56:30頃から)

エピグラフとかエビピラフ 15/可能性と柔軟性

…溢れそうに盛りこまれた神話のなかの物語は奇抜で豊潤なのに、それぞれの物語についての描写は意外なくらい淡白なのである。それが神話の特性であり、であるから、芸術家は神話のある部分に触発され、新たな作品を創造するともいえるだろう。(宮田毬栄)

阿刀田高著『私のギリシャ神話』(集英社文庫)に寄せられた「解説」の引用。この後、ラシーヌ・ジロドゥ・サルトル・カミュの名、そして阿刀田氏の『新トロイア物語』が挙げられる。本編中にも、モリエール・ゲーテ・ニーチェ、ボッティチェリ・ダヴィンチ・アングル・モローの絵画、ミロのビーナスやベルニーニの彫刻、映画『マイ・フェア・レディ』等々、ギリシャ神話の様々な変奏が登場する。
さて、俳句や抽象画は自ずから余白を伴う表現だが、その余白は言い足りずの空白ではない。新たな読みを開く可能性であり、読者一人一人に応ずる柔軟性である。

エピグラフとかエビピラフ 14/会場に置いて来る

「作句信条」であれ「生活信条」であれ、信条というものは人の心に枠をはめる。いわば心の自由を奪います。しかし心の自由な働きこそ文学の根本なので、信条というものは持たないようにしています。(長谷川櫂)

作品発表の度にステートメントの類を書く。それは、後生大事に守って行くというものではない。展覧会が終わったら、作品共々会場に置いて来る。そして次に進む。
引用は、『俳句』創刊65周年記念付録の「現代俳人名鑑 Ⅲ」より。

エピグラフとかエビピラフ 13/人生の物語

この本を通して私が語ろうとしているのは、美術における技術の進歩の物語ではなく、美術についての考え方や社会的な条件の変化の物語なのだ。(エルンスト・H・ゴンブリッチ)

個人レヴェルでも同じことが言える。自分の絵を作るとは、折々の考え方とぴったり来る画面を探すことだし、それは折々の社会的条件にも影響される。絵は、作者の変化の、つまり人生の物語となる。
引用は『美術の物語』(河出書房新社)第1章「不思議な始まり 先史、未開の人びと、そしてアメリカ大陸の旧文明」から。

エピグラフとかエビピラフ 12/画家・キャンヴァス・観者の位置関係

「アクション・ペインティング」という呼称の影に隠れてこれまで見過ごされてきたのは、絵画の存在論的様態を人的な位相へと昇格させようとするローゼンバーグの思考ではないだろうか。ローゼンバーグのテクストが示唆するのは、主体と客体との関係をインタラクティヴ(相互的)なネットワークとして語ること、あるいは絵画をコミュニケーションのレヴェルで語ることである。(沢山遼)

絵画は一方的に見られるもの、つくられるものではなく、主体に呼びかけ、主体を巻き込む、関与的なもの、接触的なものへと変貌する。それは観者を外的な観察者の位置に留めることを許さないだろう。つまり、ポロックやニューマンがつくりだそうとしたのは、なにかについての絵画ではなく、なにかそのものとしての絵画なのだ。それは絵画ではなく、絵画以上のものであり、それがそれ自体であるような、リアルな実在である。(沢山遼)


画家・キャンヴァス・観者の位置関係はフラットだ。画家とキャンヴァスはコミュニケーションし、キャンヴァスと観者はコミュニケーションし、観者と画家はコミュニケーションする。
二つの引用は『現代アート10講』(武蔵野美術大学出版局)の第3講「抽象表現主義と絵画、あるいは絵画以上のもの─ポロック、ニューマン、ロスコ」から。

エピグラフとかエビピラフ 11/画家本人

つまり、「根源的なもの」を描かなければならないという、抽象表現主義の画家たちに共有された命題が要請するのは、いわば表象不可能なものの表象可能性の探求である。その意味で抽象表現主義の画家たちは、具象的・再現的なイメージを否定すること以上に、純粋な抽象という観念に反対した。あるいは、そこでは具象/抽象という様式の対立そのものが偽の問題として斥けられなければならなかった。(沢山遼)

絵画とは自己の発見である。すべての優れた画家は彼自身を描く(ジャクソン・ポロック)


意識的であろうとなかろうと、言語化しようとしまいと、色や形やタッチやマチエールには、画家本人が表象される。主題も問題意識もその画家の限界さえも。
引用はどちらも『現代アート10講』(武蔵野美術大学出版局)第3講「抽象表現主義と絵画、あるいは絵画以上のもの─ポロック、ニューマン、ロスコ」より。

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